2011年3月11日に私が学んだこと。

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5年前のあの日を振り返る

2011年3月11日。あの日、私は長男の幼稚園のお友達の家へ、次男を連れて3人で遊びに行っていた。

 

幼稚園の卒業を控え、3年間仲良しだったお友達の家へ初めての訪問。なかなかスケジュールが合わず、放課後一緒に遊ぶことが出来なかったので、かなり前からスケジュールを合わせて、この日を楽しみにしてた。

 

3時少し前、お友達のいとこと子どもたち、5人で外で遊んでいた。その時、グラッと来た。食卓に座っていた私たちは顔を見合わせ、倒れたり、落ちてくるものはないかと周りを見渡した。飾り棚の上に飾ってあった写真立てが倒れた。すぐに子供たちを探す。目の前に見える道路がぐにゃりぐにゃりと波を打っていたのが映像のように今でも目に浮かぶ

 

子供たちは揺れ始めてすぐに、家の中に走り入ってきて、テーブルの下にもぐっていた。揺れが収まると私と友達はすぐに主人や実家の家族に連絡を取り始めた。間もなく小学生のお兄ちゃんが帰宅。学校での様子を話してくれた。二階家の友達の家では2階に置いてあった書棚や机の本が倒れてしまったと子どもたちは大騒ぎをして片付けに行った。

 

テレビをつけると、間もなく津波の情報を伝え始めていた。震度5強が記録された我が家の周りでは大きな被害はなく、私の家も特に何かが倒れたり、落ちたりしたものはなく、しっかりと閉めていかなかった備え付けの食洗器が引かれた状態になっていたのと、レンジ台のスライドテーブルが前に出ていたくらいだった。

 

マンションの1階はガスの緊急停止もなく(2階以上はガスの緊急停止信号が出て、元栓のスイッチがおりたらしい)、子供たちも地震の恐怖をそれほど感じることなく、その日を終えることができた。

 

でも、その日から日本の状況は一変した。周りの状況も一変した。小さな子供たちが春休み中に自宅にいるということで、とにかくテレビをつけずに、子どもたちと外で遊ぶようにしていた。マンションのお友達ご夫婦が東北、仙台出身ということもあり、ご実家の状況把握や、ご親戚、お友達の安否確認の情報収集をネットやテレビを使って付きっきりでされていたので、お子さんを預かり、家の兄弟と遊ばせていた。

 

そんな5年前のあの日、あの日からの数週間を、思い出していた。

あれから、私は何ができたのだろうか。私の中で何かが変わったのだろうか。

 

今でも、あの日の映像を見るだけで胸が苦しくなるのを感じる。込み上げてくるもので喉の奥がきゅーと締め付けられるように感じる。東北の今の状況を伝える情報番組を、ただ、遠くから、それを見ているだけしかできない自分。

 

東北の地であの揺れを感じ、被災者と呼ばれるようになってしまった方々の5年間、ご心痛、ご心労を考える。この5年間がその心を少しでも癒すものになっていたのかと思うとまだ、それを振り返るだけの時間は立っていないように思えるのはきっと皆同じだと思う。

 

全ては一瞬にして無くなる。

あの日、私が学んだことだ。

 

本当に必要な物なんて何もない。この体さえあればそれで十分だということを私は学んだ。

大きな家も、素敵な服もバックも靴も。想いでの詰まった写真までも、形あるものは全て壊れて無くなるものだ。

 

私が子どもたちに残してあげられるもの、それは、体に染み込ませた記憶、感覚に刷り込んだ教え、たくさん注ぎ込んだ愛。この体の記憶が全てなんだと思った。

 

あの日から、私はなお一層、子どもたちと一緒に過ごす時間を大切にするようになった。日々語り合うこと、一緒に食事をすること、一緒にお風呂に入ること、お布団の中でぎゅーっと触れ合うこと。そんな時間の中で、私たち家族の時間を記憶に刷り込んでいる。

 

この限りある時間の中で、私が両親から受け継いだものを私が子どもたちへ伝えるのが私の役目であり、母として子供たちに残せるものはそれが全て。色々な経験をさせてあげたい、視野を広げて、たくさんのものを見てほしい、たくさんの人と触れ合い、感じてほしい。それが親である、私たちができること。

 

あの日、流されていったたくさんの命が私たちに教えてくれたこと。私は忘れずに私の子どもたちに伝えよう。きっとそれが今、私が出来ることだと思うから。